樋口家の祖・樋口次郎兼光(ひぐちじろう かねみつ)
戦国時代から江戸時代にかけて越後・会津・米沢で活躍した直江兼続(なおえ かねつぐ)は永禄3年(1560年)、上杉家の家臣だった樋口兼豊(ひぐち かねとよ)の長男として誕生した。
この「樋口家」は、平安時代末期、源頼朝・義経兄弟に討たれた源(木曾)義仲に仕えた樋口次郎兼光(NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に登場)に始まるといわれている。「樋口」の名は、父・兼遠が以前に譲与されていた領地の地名が「樋口」だったことで、そこからとったと伝わっている。樋口兼光は「義仲四天王」と称されるほど勇猛果敢な武士だったが、寿永3年(1184年)粟津(あわづ・現在の滋賀)の戦いで源義仲が源義経に敗れた際、捕らえられ斬死する。そして樋口一族は四散してしまう。
樋口兼光の死の様子については、平家物語「樋口被討罰」で印象的に描かれている。また同じ平家物語「実盛」では、敵だった斎藤別当実盛の死に涙する兼光の義に厚い人間性も語られている。その後千年近く続く樋口家の祖としてふさわしい人物だったといえるだろう。(NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に源義仲の四天王の一人として樋口次郎兼光が登場)
越後の樋口家 〜上杉家家臣団になるまで
室町時代の中期(おそらく15世紀末)、樋口家13代目樋口兼定(惣右衛門または総右衛門)が主君を求めて越後の地に流れてくる。そして坂戸城城主だった上田荘長尾家の家臣に取り立てられる…。ここに「越後の樋口家」が始まったといわれている。
兼定には与三右衛門兼村と与右衛門兼久という2人の息子がいて、ともに長尾家に仕えたとみられる。
さらに兼村の子・惣右衛門兼豊と兼久の子・与三右衛門兼重も長尾家に仕えた。兼豊と兼重は長尾政景(ながおまさかげ・越後上田荘坂戸城主)の家臣であった。長尾政景は上杉謙信(長尾景虎)の遠縁にあたり、長尾家(上田荘長尾家)の家督争いの際、最終的に景虎側に付き、そのまま上杉家の重臣となる。ここに、上杉家家臣団としての樋口家が誕生する。
兼豊と兼重は、政景が早逝した後もその子・長尾景勝(ながお かげかつ)に仕えた。兼豊の子・樋口与六兼続(後の直江兼続)も兼重の子・樋口与右衛門も、父親同様に景勝に仕えた。景勝は永禄7年(1564年)、謙信の養子となった。
御館(おたて)の乱から豊臣(とよとみ)臣下(しんか)へ
上杉謙信の死後、子がいなかった謙信の家督相続を巡って、ともに養子の上杉景勝(長尾景勝)と上杉景虎(北条氏康の子)が 対立し、「御館の乱」と呼ばれるお家騒動が勃発する。
天正6年(1578年)3月13日、謙信が卒中で死去。直後から景勝・景虎間で小競り合いが起きていた。特に越後渡部城(燕市渡部)の戦いでは、北条景虎側に組みした三条城主 神余親綱(かなまり ちかつな)と栃尾城主 本庄秀綱(ほんじょう ひでつな)との戦いは上杉景勝側は与板城主 直江兼続、黒滝城主 山岸秀能(やまぎし ひでただ)、夏戸城主 志駄源四郎(しだ げんしろう)が勝ち残り、地域が安定したと記されている。
6月17日、赤沢(上越市吉川区)救援の際は荒戸城城主・与三右衛門兼重が主将を努めたが、この際、上杉景勝が兼重に鉄砲2丁をもたせて支援されたとの記録がある。(このときのものとみられる鉄砲2丁のうちの1丁が與右衛門無言舘に展示されている)
景虎方優勢の中、景勝は武田勝頼(たけだ かつより)と和睦して形勢を逆転させ、外部勢力の干渉を巧みに排除。天正7年3月、景虎を自害に追い込み謙信の後継者の座を固めた。景勝に付いた兼豊(かねとよ)は直峰(のうみね)城城主に、兼重(かねしげ)は荒戸城城主になり(天正9年2月28日)、樋口家は越後を代表する一族となったのである。
天正9年(1581年)、直江家の娘、お船の婿養子で与板城主 直江信綱(なおえ のぶつな)が御館の乱の論功行賞巡る論争で殺害され、兼豊の長男・兼続は直江家の断絶を惜しみ、跡取りのいなかった直江家に婿入りし直江兼続となり、越後与板城主に。このとき兼続22歳であった。
以後、上杉家は兼続の執政体制となる。兼豊の二男・樋口与七実頼(さねより)は天神山城に婿入り。三男・樋口与八秀兼(ひでかね)は「無言の移封」後に山形米沢に土着。
越後の盟主となった景勝であったが、勢力の低下は否めず、天正14年(1586年)、信長の後継者となった羽柴秀吉から石田三成を通じて臣従を求められ秀吉の傘下に入る。景勝は秀吉全面支援のもと、出羽庄内地方も領有する。
無言の移封
兼続は安定した豊臣政権下で、長引く戦乱で疲弊した越後の立て直しに奔走する。農民に新しい田畑の開墾を奨励、越後の平野部は兼続の時代に新田開発が進み、現在に至る米所の礎となった。産業も育成し、商業の発展に努め、兼続の施策は越後に於いて謙信の時代にも劣らぬ繁栄をもたらすこととなった。
そんな中、慶長3年(1598年)上杉家は秀吉の命により、越後から会津120万石に加増移封(かぞういふう)された。加増されたとはいえ、移封先の政情は不安定で、徳川家康を監視する役割も負わされ、上杉家とそれをあずかる兼続としては納得しがたいものだったと思われる。
会津に移封した上杉家は、豊臣政権下では五大老の一人として重用はされたものの、秀吉の死後、石田三成側に付き、家康と決定的に対立することに。関ヶ原の戦いでは敗れたものの、兼続が家康の重臣・本多正信と結城秀康を頼ることで、上杉家を守ることに成功した。(30万石に減封で米沢城へ移封)。兼続の機転が上杉家・直江家・樋口家を救ったのである。
景勝直属の旗本の樋口与右衛門と荒戸城主・樋口与三右衛門は、移封に同行せず越後に留まった。これを「無言の移封」と言われ、与右衛門は人柄・家柄に秀でた人物だったと伝えられ与右衛門の思い切った決断だった。
越後に残った荒戸城主・樋口与三右衛門は殿を襲名し、荒戸城の近く(現、湯沢駅前)に大岳寺を作り、越後に土着した。
春日山城主直属旗本・樋口与右衛門は氏を襲名し、越後に留まり与板城(別名伊田城)より黒滝城の山城の武家屋敷に移り住み、現燕市牧ケ花(浦居)元海津城主豪族・解良新八郎氏の菩提寺観照寺(良寛和尚が3年間居住した寺)の地に土着した。樋口与右衛門家の菩提寺興山大蓮寺の住職である鷲沢家と山城の武家屋敷は関係があり、興山大蓮寺の住職鷲沢家に縁があるのが大蓮寺曲輪と鷲の沢井戸である。
上杉家・直江家が移封された後、各地で武者狩りがあったが、樋口家は徳川家康の家臣・本多正信氏と親戚ということで難を逃れたといわれている。(正信の二男が兼続の娘に婿入りしていた)
燕の樋口家 ~令和のふるさと新潟
会津から米沢と移封していった直江兼続の樋口家と異なり、越後に残った与右衛門の樋口家についての後の資料はほとんどない。
与板城から黒滝城の山城の武家屋敷より牧ケ花字浦居に土着した。農繁期は米作り、農閑期には稲藁で草鞋(わらじ)・蓑(みの)・草履(ぞうり)・縄・筵(むしろ)・叺(かます)・米俵・俵の蓋へそ・藁沓(わらぐつ)・菅笠(すげがさ)・稲藁雨具(わらボシ)などを作ったという。詳しくはこちら(「樋口家のものづくりDNA」へ)
なお、樋口家初代与右衛門の墓石は慶長12年に地域の豪族・解良新八郎氏の元海津城である観照寺(良寛和尚が3年間居住した寺)の墓地にあったが、戦後の昭和の土地整備の後、S氏の墓地の移転整備の折りS氏とR氏が間違って初代与右衛門の墓石を埋めてしまったことで樋口与右衛門家の長男・与策氏とトラブルになり話し合いを続けたものの、S氏もR氏も自死してしまった。(S氏は代々与右衛門家の小姓・彦平)考えられない出来事であった。※小姓:昔、身分の高い人の身辺に仕え雑用を務めた子供のこと
與右衛門の位牌と仏壇
江戸末期の仏壇作り日本一の越後加茂町特製「金450g」、金貼り仏壇です(金メッキではありません)。位牌は興山大連寺法上様鷲沢氏よりお借りして展示しています。
四天王
後世の仏像制作においても、釈迦三尊像などのメインとなる仏像の置かれる須弥壇の四隅には、たいてい邪鬼を踏みしめて立つ四天王像か配置されています。奈良 東大寺 戒壇院の四天像は特に有名です。無言舘に展示されている四天王像は奈良東大寺ミュージアムに展示されている国宝の四天王像より大きい四天王像です。
十二神将
十二神将(じゅうにしんしょう)は、仏教の信仰・造像の対象てある天部の神々で、また、護法善神てもあります。十二夜叉大将(じゅうにやしゃたいしょう)、十二神明王(じゅうにしんみょうおう)とも称され、薬師如来及び薬師経を信仰する者を守護するとされる12体の武神のことです。
無言舘に展示されている十二神将像は京都蓮華院三十三間堂に展示されている、国宝の十二神将像より大きい十二神将像です。
槍と鉄砲
この槍は、上杉景勝直属の旗本(五十騎組)樋口與右衛門に授けたもの。
鉄砲は、御館の乱の際に上杉景勝が赤沢からの援兵要請に応え樋口与三右衛門兼重(荒戸城城主)に鉄砲2丁を持たせ応援させた。兼重は岩手城救援城将となり、御館の乱終結後、越後神立荒砥城主となる。これはその1丁であると言われている。
どちらも樋口家が代々受け継いだ遺品です。