直江兼続(樋口与六兼続)と越後の山城顕彰会(通称:山城顕彰会)
地域の歴史を顕彰して燕市の文化・教育・経済を語ろう
当顕彰会は、越後国上杉謙信の後継で春日山城主の上杉景勝家臣だった与板城のお舟の方に婿入りした樋口与六兼続(直江兼続)の歴史、直峰城主・樋口惣右衛門兼豊、荒戸城主・樋口与三右衛門兼重、春日山城主直属の旗本(五十騎組)樋口与右衛門、天神山城に婿入りした大国実頼(樋口与七実頼)など、越後の山城城主たちを顕彰しています。
1579年の御舘の乱・渡部城の戦いで、小田原城の北条景虎側は渡部城(現燕市渡部)を守るため、三条城主・神余親綱と板尾城主・本庄秀綱らを支援したが、直江兼続の支援を受けた黒滝城主・山岸秀能が渡部城を勝ち取り、地域が安定したと記されています。
- 御舘の乱終了後、柴田佐渡守勝全が1万3,000石で渡部城主となる。勝全の正室は、徳川三代将軍・家光の乳母となる春日局の姉様
- 夏戸城主だった志駄定重は1415年(応永22年)、彌彦神社に備前国長船家盛作の大太刀(重要文化財)を奉納したと記されている
- 当顕彰会は、日本を代表する歴史学者で無言舘舘長・花ヶ前盛明氏と、越後の戦国時代の山城の歴史を訪ねる企画を毎年数回、親睦を兼ねた会です
戦国時代の越後の歴史
戦国時代、豊臣秀吉に越後春日山城90万石から福島会津若松城120万石に移封された上杉景勝だったが、
その後関ケ原の戦いでは西軍に付き敗北。徳川家康より、負けた石田三成と音信ありとして、出羽国(山形)米沢城へ30万石に無言の移封をされた。
兼続は米沢藩上杉家安定のため、徳川家康の家臣本田正信の二男・政重(まさしげ)を直江兼続家の娘に婿入りさせた。
戦国時代物作り学問を進めた兼続は開国後、江戸幕府二代将軍徳川秀忠の近親者として江戸城桜田門前にある米沢藩上杉家江戸藩邸で元和5年(1619年)12月19日、60歳の生涯を閉じた。
米沢市東源寺では毎年直江兼続の祥月命日に供養法要が執り行われている。
無言舘では越後の英雄・米沢の英雄である、愛の知将 直江兼続(NHK大河ドラマ『どうする家康』に直江状が登場)の功績を後世に語り継ぐ顕彰会を行っています。ご興味のある方はスタッフまでお申し出ください。
山城顕彰会では、米沢直江会、上田史談会と交流をおこなっております
詳細は[與右衛門無言舘案内本]や当ホームページをご覧になって、ご興味をもたれた方はぜひお申し込みください
会費:1,000円/年(無言舘招待券3枚差し上げます)
山城顕彰会事務局(無言舘事務局内)
T E L | 0256-97-4506 |
会 長 | 鳴海 忠夫 |
事務局長 | 渡辺 憲 |
事務局 | 解良 憲一 |